| 1986年11月 |
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モスクワの国際線空港でトランジットホテルに1泊した時、パスポートを当局に没収(?)され、この赤いカード(通称レッドカード)を渡されたのでした。「ソ連は怖い国」と小さな頃から洗脳されてきたので、この先どうなってしまうのか不安な1晩でした。
トランジットホテルでは、しっかりと夕・朝食をいただきました(ちなみにホテル代、食事代ともに無料)。夕食はこれ以上まずくは作れないと思えるほどの料理と記憶しています。ほとんど味のないコールスローサラダ、冷めたボルシチ、これまた冷めて全く味のないボイルした鶏肉、酸味しかないジャンボピクルス、そしてかなり固い黒パンといったメニューでした。ちなみに朝食はホテルでミール券を渡され、空港内のレストランでコンチネンタルブレックファーストを食べました。テーブルの上には、チェルノブイリ原発事故により放射能汚染された(と思われる)ボイルドエッグが山盛り置いてあり、2個ほど体内に取り入れました。
パスポートについては、ホテルを出るとき無事に戻ってきたのでした。 |
| 1988年2月 |
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ウイーンに向かう途中のトランジットで、再びモスクワの国際空港近くのトランジットホテルに宿泊しました。空港からホテルに向かうまでの様々なチェック、レッドカードと引き換えにパスポートを渡す流れについては前回と同じだったので、精神的には前回と違いかなり余裕がありました。
食事についても前回と全く同じメニューでした(ボルシチが温かかったのが唯一の相違点でしょうか)。ひょっとしたら365日、トランジットホテルの厨房では同じメニューを作っているのかもしれません。 |
| 1988年9月 |
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初めてのソ連。極東ハバロフスクで散歩。
街中の至るところで行列がありました。こんなたくさんのスイカを売っているのですが、販売担当はこの女性1人だけ。行列ができるのは当たり前か。
スイカを売っている横では「体重量りおばあさん」がいました。日本でどの家庭にもあるような体重計の前にどっしり座り、客の体重を量ってお金をもらっていました。しばらくそこで観察してましたが、体重計に乗るのはほとんどスリムな若い女性。もっと意識したほうがいいのでは、と思うような女性は乗りませんでした。 |
| 1990年1月 |
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ゴルバチョフのペレストロイカも浸透し、モスクワに西側資本が流入してきました。象徴であるマクドナルド1号店。できたばかりでかなりの行列。現地価格でかなりの高額でした。中には食べ物持参で、一番安い飲み物だけを注文している輩もいましたが、店のネーチャンたちが目を光らせており、あっというまに排除されていました。 |
| 1994年5月 |
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4年ぶりに訪れたモスクワはかなり様変わりしていました。そんな中でも、サーカスは依然庶民の娯楽としての地位を保っていました。ボリショイサーカスの最前列チケットをダフ屋から購入。 |
| 2000年9月 |
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極東ウラジオストクのかなり親切なタクシードライバー。
宿泊したホテルの前で客待ちしていた中の1人。若いニイチャンドライバーが積極的だったのに対し、このおじいさんドライバーはもじもじしており、擦れていないところに惹かれて指名しました。ホテルから空港までの帰路でしたが、頼みもしないのに空港近くにあるシベリヤ抑留日本人墓地に連れて行ってくれました(ホテル前で空港までの金額交渉を終えており、途中立ち寄りは損なはず)。
その墓地は道路表示は無く、看板などもかかっていない、草原の真ん中にありました。舗装されている道路から未舗装の道路を進み、車を止めてからしばらく草を分け入ったところに、草の中に埋もれるように番号の付いたコンクリートの小さな枠(墓)が点在していました。周囲には何もなく、草が風になびく音しか聞こえませんでした。おじいさんは近くの草むらから花を摘んできてくれ、墓にたむけるよう渡してくれました。花をたむけ、合掌してからしばらくそこのもの悲しい雰囲気にひたっていました。 |
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